公共施設の見直し方針に思う

市が取り組んでいる「パルテノンの改修」と「図書館再編」が、3年を経ても解決の気配が見えない。
原因は、事の次第がこれからの市民のQOLに、あまりにも深くかかわっているからであろう。
公共施設の見直しは、市や議会の責務ではあるが、その方針を実行するには、市民との間で、基盤となる共通の環境がなければなるまい。だが、その基盤ができているかとなると、そうではない。それはなぜか。

1.わがまちは、市民主導で「自治基本条例」が制定され、市はその理念を市政の最高規範と位置付けた。現首長も、かつて「さあ、市政を変えよう、これからは市民主権の時代です」と呼び掛け、市民の支持を得た筈である。にもかかわらず、10年を経たいまなお、市には市民協働を担当し、推進する組織名もないのである。
市民有志は、こうした点を早くから指摘し、市と市民が向き合い、意見を交換して集約していく体制の必要性を、政策提言としてしばしば建言してきた。

2.市は、公共施設の見直しにあたって、自らの主張を繰り返し説明し、市民への説得を重ねている。ところが、言葉だけでは、市民が正当さを理解し、評価できるには、ほど遠いといわねばなるまい。それは具体的、客観的に理解するに足る論理が示されていないところにある。ここでいう正当性とは、
「必要要件」・・・・これまで、その施設が果たしてきた成果、実績に基づいて、改善すべき役割(内容の実体)
「充分要件」・・・・そこを改革しなければ、将来それが市民にもたらす「デメリット」の予見
の両側面について、提示することである。

市には、そうした側面の裏付けとなるデータを、多く有しているであろうが、それらを具体的に、それぞれ3つほどの主要要素に絞り、市民の意志形成を図っていくべきである。「百言は一図にしかず?」である。
ちなみに、市が全戸に配布したという見直し策の第3輯を見たが、、主張の核心がどこにあるのかおよそ見えなかっのに驚いたことがあった。

以下、上述の考えを整理するために、「図書館再編」問題に関する老生の見方を述べてみよう。
老生は、もともと図書館の再編が不要という立場であるから、上記した「充分要件」は、再編しないことが、将来メリットであることの正しさを述べることである。
主張の要素とは、
1.わがまちは、NT発足時、まず地区ごとに計画人口が決められ、それそれに地区図書館が計画的に配置された。一般の自治体のように、さきに駅の近くに図書館があり、住地の広がりにつれて、逐次分館を増設していったのとは基本的に異なるのである。
2.近隣自治体とわがまちの図書館サービスの現状を、多岐にわたって比較・分析してみた(表:省略)。
その結果明らかになったのは、わがまちのサービスレベルが、

  • 地区図書館だけで、年貸出冊数、蔵書数など、全く遜色がないこと
  • 一地区図書館の床面積が相当広いこと
  • 住まいから最も近いところに、図書館があること
  • 中央図書館を新設するとなると、図書館全体の床面積は格段に過剰になりそうなこと

3.ICT(情報通信技術)が急速に進歩する世の中、紙媒体に頼る時代は過ぎつつある。あらゆる情報がデジタル化され、図書館に行かずとも、居ながらにして世界の多様な情報が入手できるのである。老生は第4次総合計画当時から、中央図書館の不要を主張してきた。新聞よりもスマホの時代へ変化しているではないか。
4.市が中央図書館の新設が不可欠だとするなら、今すでに高いレベルにある社会教育を、さらに高めなければならない背景はなにか。それが学校図書室の改善・整備よりも優先すべき課題であるいえるのか。
要するに、市の見直し案は、これまで築いてきた必然の発展経過を、逆回しすることになりそうである。

わがまちが誕生して40数年、いま第一世代の人々から次の世代へ急激に移行しつつある。これまでの「ねぐらのまち」から、ここで生まれ育つ若者たちに郷土への愛着を持たせ、まちが自立できる環境つくりが、市政に課された喫緊・最重要な課題であろう。このような中、公共施設が古くなったというだけで、すぐハードの更新に莫大な費用をかけることが、将来の市民に評価してもらえるのだろうか。その視点が問われている。

市議会も政策提言に「趣旨採択」だけで、また市民の求めにコメントするだけでは、次の世代の人々に責任を果たせるとは思えない。

以上、市井の一老人の声であるが、これに誤りがあるなら、その論拠をお聞きしたい。もしそうでなければ、市は環境作りまで立ち戻って、議論を始めるべきと思うが。

Share on Facebook

コメントを残す

メールアドレスが公開されることはありません。